双条光華のエンタメ一刀両断!でタグ「福田麻由子」が付けられているもの

「夏休みはありません!追いつめられた子供が引き起こした悲劇と奇跡!!」

 阿久津真矢(天海祐希)の独裁的かつ抑圧的な教育に成果が見えはじめた。彼女の目的は、自分の意志を持ち、いかなる時もそれに基づいて行動する人間を育てることだと、前回の感想に書いた。神田和美(志田未来)はその力を発揮しているし、真鍋由介(松川尚瑠輝)も彼女の影響を受けて、力強くなった。

 そして、今回、そこに新藤ひかる(福田麻由子)と馬場久子(永井杏)が加わり、反真矢勢力(実際には真矢の意図に沿っている生徒たち)は徐々に拡大している。終盤でクラス全員にまで拡大したかのようにも見えるが、それは虚構の連帯であり、容易に崩れてしまうだろう。

 あの場面で、真矢へ反発した生徒の大半は、周囲の状況に流されたに過ぎない。そこには自分の信念のなど微塵もなく、ただ自分に有利であろう勢力に逃げ込んだだけだ。真矢が個人面談を行い、飴と鞭を巧みに使うことで、あっけなく元の状況に戻るに違いない。

 真矢にとってみれば、まだ目的が達せられていないわけだから、ここで引き下がることはできない。彼女は徹底的に生徒を押さえつけることによって、全生徒を真に強い人間へと育て上げようとしているのだ。その道は果てしない。

 もしも、数名の生徒のみが精神的な強さを身に付けたとしても、その一方で、強者に追従するだけの人間を大量に生み出してしまっては、真矢の教育は大失敗である。彼女の教育が成功するのは、全生徒が強くなったときだ。彼女は失敗の許されない、厳しい状況を自ら生み出し、果敢に挑戦しているのだ。

 だから、夏休みといえども休むことさえしない。真矢の教育方法に対する批判も多いが、並木(内藤剛志)や天童(原沙知絵)のように、自分の遊びを優先させる教師こそ非難されるべきであり、それは、週休2日制で休暇を増やし、ゆとり教育で授業を外部に丸投げするような、現代の日本の教員についても同様である。真矢は休みであっても、生徒の行動を監視し(見守り)、生徒の変化を見逃すこともない。そういう裏の努力があってこその女王なのだが、女王とは言うものの、あのような授業を行っている彼女こそが一番辛く苦しいのではないだろうか。

 この見方が正しいとした場合、たしかに、真矢の目指すことは分かるし、そのための教育法として、行き過ぎた部分もあるとは思うが、概ね納得できる。だが、一般的にみて、この教育が成功する確率は極めて低い。彼女の抑圧に反発する力を持った生徒が1人もいなかったとしたら、有力者に媚びへつらう人間を大量生産するだけだからだ。神田が抵抗できたのは、真矢の教育のためではなく、彼女自身の元来の力強さゆえである。彼女のように強い生徒がいたからこそ、真矢の教育は成功に近づいているが、そういう生徒がいなければ、元も子もないというのが、真矢の教育における一番の問題点だろう。

「みんなにドロボウと言われてクラス崩壊・犯人探し先生友達を返して!!」

 前回の感想の中で、このドラマは社会主義社会をクラスにおきかえて、そこに住む人間が抵抗する過程を描いたものなのではないか、と書いた。現時点でも、まだそのような見方は成立するが、さすがにそこまでの飛躍はなさそうだ。ただ、真矢(天海祐希)が完全悪であるという見方には変わりない。

 真矢の言っていることは、批判する余地がないぐらいの正論である。しかし、その正論が常に正しいとは限らない。正論というのは、状況によって変化する。だが、真矢の主張は臨機応変に形を変えるものではなく、絶対的なものであり、不変だ。だから、その主張は、たしかに正しいのだが、はたして、教育現場においても正しいと言えるだろうか。今のこのクラスの中でも正しいだろうか。私は、そう思わない。彼女が行っているのは、教育ではなく、統制であり、矯正である。

 それが如実に現れているのが、進藤(福田麻由子)への仕打ちである。彼女は成績優秀であるにもかかわらず、真矢に逆らったという理由だけで、虐げられている。良識ある教育者であれば、優秀で友人想いの彼女を潰すようなことはしないはずだ。

 これに関する真矢の主張は、「目上の者にはちゃんと従うこと」というものである。しかし、これは詭弁に過ぎない。彼女が本当にそう信じているのなら、彼女自身、なぜ学校で最も偉い校長(泉谷しげる)や教頭(半海一晃)、あるいは学年主任(内藤剛志)に従わないのか。取るに足らない存在なのかもしれないが、少なくとも学校組織の中では目上の者である。彼らに従わないのは不自然だ。

 また、今回の物語の中では、真矢による強硬的な犯人探しの結果、無実である神田(志田未来)が犯人扱いされることになってしまった。この状況から、真矢の理念の欠陥が浮かび上がってくる。先述したように、彼女は一般的な正論を主張しているに過ぎず、その正論を微塵も疑っていない。その正論を行使したことによってもたらされた状況を的確にとらえ、判断することができれば、自分の言動の誤りに気付くだろう。しかし、彼女はまるで狂信者のように、一つの思想を信じて疑わない。そのために、正論とは思えない正論が生まれてしまっているのだ。

 結果的に犯人となった神田は、他の生徒たちのいじめの的になってしまう。これに対する真矢の対応によって、彼女の真意がうかがえるかもしれない。もし、自分に逆らった生徒であり、罪を犯した人間(実際には違うが)であろうとも、いじめをやめさせるならば、教育者としての自覚があるのだろう。逆に、いじめを止めなかったとしたら、彼女は教育者とは言えない。その場合、ひょっとすると、自分に向けられた反発心を解消するために、神田といういじめ相手の存在を容認してしまうかもしれない。そうなれば、彼女の意識が教育に向いていないことが明らかになるだろう。

 ところで、彼女は、なぜ、教育者になろうと思ったのだろうか。彼女が教育者であるならば、自身の信念に基づいた教育を行っているのだろうから、現在の教育に疑問を感じて、教育者になることを目指したのかもしれない。

 だが、彼女が教育を目的とせずに、教育者になったのだとしたら、それはどういう理由からだろう。一つの可能性にすぎないが、彼女は一般社会からはじき出された落伍者なのではないか。つまり、彼女は性格の欠陥ゆえに、社会生活に躓き、自身の主張を最も強く推し進められる場所として、学校を選んだのではないか。一般社会では権力者になれなかった彼女は、自分が絶対的な権力を持った「女王」として君臨するために、教員となったのではないか。最も生徒を操りやすい、小学校の。

 彼女は信念を持った教育者ではあるものの、その信念が教育にはふさわしくない、つまり、誤った信念をもとに教育を推し進めている教師であるという、真矢に対する好意的な見方もあるだろう。確かに、「誰にでも間違いはある。それは教師でも同じだ。クラスの中で絶対的権力を持った存在である教師が間違っていたら、こんな怖い状況になってしまうこともある。」というドラマであってもおかしくはない。

 だが、時折垣間見える、生徒に向けた、相手を卑下したような笑みから考えると、彼女はただのサディストなのではないかと思ってしまう。少なくとも、信念を持って教育をしている人間の表情とは思えないのだが、果たしてどうなのだろうか。

 真相が明らかになるまではまだまだあるが、真矢に教育者としての理念や自覚など、これっぽちもないというのが、現時点での私の見方であり、予想である。

「親友・裏切り・涙。小学校最後の思い出…先生お願い、私に踊らせて!」

 阿久津真矢(天海祐希)は何のために、生徒を冷徹に管理し、いじめているのだろうか。そこに、教育者としての信念はないように思う。

 今回の物語は、開校記念日に向けたダンスの練習が中心であったが、そのダンスを、生徒の進藤ひかる(福田麻由子)が「どっかの国みたいな、あんなくだらないダンス」と非難していた。真矢が作ろうとしているクラスは、そのどっかの国のように、独裁体制の社会主義的なものなのではないだろうか。彼女が育成しようとしているのは、教師に忠実な生徒であり、それはまさに、社会主義国家における、理想的な人民なのではないか。

 そう考えると、このドラマは、社会主義社会において虐げられている人民たちの反抗の物語を、一つのクラスに置き換えているのではないだろうか。つまり、これは学園ドラマではなく、下級民が権利を勝ち取るまでの闘争を描いた社会派ドラマなのだ。だから、その最上階に位置する真矢に教育者としての信念などは必要ない。社会主義社会のトップというのは、人民のことよりも、自分自身のことを第一に考えるのである。

 ところで、このドラマを巡っては、様々な反応があるようだ。確かに、新鮮で衝撃的な内容だから、いろいろな意見があって当然だろう。

 天海祐希(37)が小学校の鬼教師を演じる日本テレビドラマ「女王の教室」(土曜後9・00)の内容をめぐり、視聴者間で論争がぼっ発している。ドラマの公式ホームページ上の掲示板で賛否両論が渦巻き、第2話までしか放送されていない現段階で書き込み数が1万2000件を超えた。「打ち切り希望」の声がある一方で、「こんな先生が必要」との賛成派もおり、意見は真っ二つに割れている。

(中略)

 天海が演じるのは、公立小学校の6年3組の担任として赴任した女性教師・阿久津真矢。徹底した成績重視主義で子供たちを管理する。「あなたたちは有名私立小の生徒よりずっと遅れている」「授業以外で私に話しかけていいのは成績上位の2人だけ」。スタッフが付けた「悪魔のような鬼教師」のキャッチフレーズどおり、その言動には批判の声が集まり、書き込みが2日の番組スタート直後から殺到した。

 大きな社会を小さなクラスの中に再現したという点で、とても新鮮ではあるが、批判的な反応が起こるのも理解できる。しかし、教師という立場を利用して、生徒を操る人間を描くことが間違っているだろうか。現実に、そういう教師が存在するではないか。生徒にわいせつ行為を働いたり、行き過ぎた体罰を与えたりする教師の存在は、頻繁に報道されている。

 もし、このドラマでそういう教師を礼賛するような表現がなされているとすれば、それは批判すべきである。しかし、作中で真矢が良い教師であるように描かれることは皆無だ。彼女が登場するシーンは、常に青白く暗い照明を使っている。他のシーンは赤系統の暖色照明であることを考えれば、制作者側の意識がうかがえるだろう。また、生徒たちも他の教師も彼女を良い教師とは思っていない。保護者たちは彼女に騙されている過ぎない。このドラマの中で、心から真矢を尊敬したり、認めていたりする人間は存在しないのである。

 だから、単純にこのドラマを否定することはできない。主役が悪であるという構図のために、浅薄な批判が起きているのだろうが、そのような批判をする人間は、作中で描かれている保護者と同様で、物事の表徴しか見ることができないのではないかと思う。このドラマは、理不尽な鬼教師(すなわち、社会のトップ)への批判を秘めているとともに、そういう人間にたやすく騙されてしまう保護者たちへの批判をも抱いているのではないだろうか。

 というのは、私の見方なので、制作者の意図は違うのかもしれない。もし、真矢が高尚な信念を持った素晴らしい教員で、最終的には生徒たちもそのことに気付き、彼女に感謝をする、などというような展開になったとしたら、私はこのドラマを批判するだろう。ここまでの真矢の言動は、いかなる理由があろうとも認められるものではないからだ。だから、彼女は最後まで悪でなくてはいけない。

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